法に依ってらざれ

『師弟』を強調し会員の信仰心
を忠誠
すりかえる

なぜ池田名誉会長の指導は変わるのか

池田大作が会長にならなければ破門も正本堂破壊もない


愚人ほめられたるは第一のはじなり

創価学会の脱講運動は
本門戒壇の御本尊に敵対する
大謗法


池田創価学会ではこれ以上の弘教は出来ない


池田創価学会の都合に拠る御書解釈


御書と池田名誉会長の妙法観
・本尊観の相違


聖教新聞は広布のミサイル?
迷惑のミサイル


聖教新聞の欺瞞を暴く


創価学会が会員に絶対
知られたくない最
新情報



会員の洗脳目的で反復する宗門誹謗


乙骨訴訟 学会の不法確定

冬柴元幹事長死去

太田昭宏再出馬決る

派閥抗争で創価学会組織は
分裂する


宗教法人の優遇&脱税を放置
するな


矢野氏が明かした「乱脈経理」

原田氏 会長に再任

遂に看護師が病状を証言

学会をまとめる真の後継者

高倉氏 池田名誉会長を提訴

四者で未来部テコ入れ

創価学会最大の激震

池田創価学会が
絡んだ
事件・裁判


「南無妙法蓮華經」を商標登録出願するも拒絶される

言論出版妨害事件

月刊ペン事件

本尊模刻事件

共産党宮本委員長宅
電話盗聴事件


正本堂御供養返還裁判


「シアトル」裁判

「芸者写真」偽造事件

黒い手帳事件

日記持去り事件

創価学会の裁判記録


矢野氏手記
「池田大作と


語られない池田氏の生の姿

池田大作に勝る大物はいない

「黒い手帖」事件

神懸かりな言動

究極の演出―本部幹部会

演説はざっくばらん

公明党をけなすのも計算尽く

競争させて忠誠を尽くさせる

学会員一人一人と直結するシステム

贈り物好き

何かにつけて報告書

「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」

出廷拒否の「月刊ペン事件」

見事な戦略、創共協定

宗教界の王者に

国税との交渉



戸田先生の指導動画
創価学会設立の条件

宗門に対する想い

総本山への熱誠

広宣流布について

政治参加について

御本尊に関して

御本尊不敬の恐ろしさ

御本尊書写についての卓見

創価学会の「信者」などない

池田先生にきついお叱り

御法主上人を悪口する馬鹿どもへ



LINK

日蓮正宗HP

妙観講HP

創価学会HP

日蓮正宗青年僧侶改革同盟

正信会HP

顕正会HP

創価学会を破す

創価学会の思想について

真実の創価学会史

福本潤一元参院議員の池田創価学会批判

池田礼賛

池田大作その虚飾を検証

妙観講に法論を挑まれ
逃げる学会最高幹部No1


妙観講に法論を挑まれ
逃げる学会最高幹部No2


妙観講に法論を挑まれ
逃げる学会最高幹部No3








動画リンク(顕正会

疑惑の正本堂 崩壊す1

疑惑の正本堂 崩壊す2

疑惑の正本堂 崩壊す3

誑惑の正本堂 崩壊す4

誑惑の正本堂 崩壊す4.5

疑惑の正本堂 崩壊す5

疑惑の正本堂 崩壊す7

疑惑の正本堂 崩壊す8

疑惑の正本堂 崩壊す9

疑惑の正本堂 崩壊す10

疑惑の正本堂 崩壊す11

疑惑の正本堂 崩壊す12

法に依って人に依らざれ
創価学会のための池田名誉会長批判

御書を根本にすれば池田大作の本質が見えてくる。

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大石鶴丸
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■ 三大秘法から離れニセ本尊を発行し、日蓮正宗を『邪宗』呼ばわりする悩乱池田創価学会。
■ 日蓮仏法で折伏し 入会したら 『師弟論、池田本物論』で選挙協力、聖教新聞販売に駆り出される
■ 池田大作が会員の幸福を願っているのなら、一般会員を本門戒壇の御本尊から引き離すことはしない。
■ 学会発展の真の功労者は一般会員で池田大作ではない。折伏も選挙も資金も全て一般会員の真心の信心に拠る
■ 脱会者の云うことに真実がある。側近幹部、議員が脱会したのは池田創価学会の本質を見抜いため。
■ かつて『南無妙法蓮華経』を商標登録し、本尊模刻の前歴が有る池田大作にとって、ニセ本尊の発行は何でもない。
■ 『日蓮正宗を破門された』犠牲者の立場と、『魂の独立』を使い分ける、御都合主義。
■ チベット仏教を弾圧する中国から名誉称号を貰い、嬉しそうに宣伝する『宗教家 池田大作』。
■ 日蓮大聖人の仏法哲理を 『池田哲学』と云う法盗人。脱会者に対する怨念、誹謗、復讐が本当の『池田哲学』
■ 将来、池田創価学会は本門戒壇の御本尊を否定し、池田本物論の邪義を正当化する。


創価学会が会員に絶対
知られたくない最
新情
矢野氏手記
「池田大作と私」
池田創価学会の軌跡
会長就任から正本堂破壊


『師弟』を強調し会員の信仰心を忠誠心にすりかえる
『師弟論』とは池田本物論の言い換え
■随分前から創価学会では『御本尊に対する信』よりも『師弟』を強調してきた。『師弟不二』、『師弟共戦』、『池田先生にお応えする』、『仏法の根本は師弟である』等云々 無論 仏法の根本は師弟にあるのではなく 正しい御本尊に帰命すること以外にない。

 戸田第二代会長の指導に貫かれているのは 『如何に 学会員の心を日蓮大聖人、本門戒壇の御本尊に向かわせるか』であり それに対し池田名誉会長の指導は 『如何に 学会員の心を池田名誉会長自分自身に向かわせるか』に執着している。その表れが『師弟』の強調なのだ。
 仏法上の弟子と言えば 釈迦の10大弟子 日蓮大聖人の6老僧 創価学会で言えば戸田先生側近の戸田門下生等が思い浮かぶが これらに共通するのは特定少数である。師と寝起きを共にし,師の生きざまに接し 師の心に共鳴し師の精神を引継いで行こうとするものである。池田名誉会長が会館職員、副会長等特定少数の人たちを後継者として薫陶し弟子と称するのはそれでよい。しかし池田名誉会長は 800万世帯学会員に対し私は師匠だと言っているのだ。800万は不特定多数で言葉を変えれば『衆生』であり。そして『衆生』に対する『師』とは『仏』を意味する。

 4・5年前の本部幹部会衛星中継での池田名誉会長のスピーチが今も私の記憶に残っている。
日蓮大聖人と日興上人にダブらせて戸田先生と自分を語り、戸田先生を偉大な指導者と褒め称え、自分が如何に その偉大な戸田先生から信頼されていたか、戸田門下生の中で如何に傑出した存在であったかを自画自賛し 次のように云った 『私は戸田先生を仏の如く敬った。』 そして話は池田名誉会長と我々学会員との『師弟』に進んで行く。直接口には出さなくとも、言外に『私を仏とし敬え。』と言っているのだ。池田名誉会長の『師弟論』とは『池田本物論』の言い換えであり 学会員の本門戒壇の御本尊に対する信仰心を創価学会とりわけ池田名誉会長への忠誠心にスリ替えている。そして組織内での『池田先生』と云う言葉は 水戸黄門の『この紋所が目に入らぬか』の響きを持ってくる。
このことに気付いていない学会員は以下の御金言を深く胸に刻むべき。
法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し 師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり
(曾谷殿御返事


なぜ池田名誉会長の指導は変わるのか
前に言っていたことと、今言っていることが違う宗教は邪宗−戸田会長
法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ法華初心成仏抄

依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か
唱法華題目抄

人師を本とせば佛に背くになりぬ。
顕謗法鈔

仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり如説修行抄

経文に背いて人師の言に随ふべきか人師の言を捨てて金言を仰ぐべきか用捨心に有る べし聖愚問答抄

我等が如き名字の凡夫は仏説に依りてこそ成仏を期すべく候へ人師の言語は無用なり(教行証御書)

文証無くんば悉く是れ邪偽なり、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らずんば之れを用ゆべからざるなりと。依義判文抄

■池田名誉会長の指導は過去と現在では正反対の違いがある。それも日蓮仏法の根幹をなす本尊観、広宣流布の定義、御法主上人の血脈等である。在家教団のその時置かれている立場で 日蓮仏法の根本法義が変わることなどありえない。しかし創価学会内では根本法義より『師弟』が優先し 池田名誉会長の如何なる発言をも正当化してしまう。

広宣流布の定義でいえば『国立戒壇の建立の時』を広宣流布としていたものを、公明党を結成し敵対勢力から『政教一致 国立戒壇は憲法違反』との攻撃を受けると、『舎衛の三億』を広宣流布とし、平成3年宗門から破門となり三大秘法が手の届かない存在になると『流れそのものが広宣流布』と言うようになった。そして原田会長は全国県長会議で『池田門下生の陣列を整えることが広宣流布である』と指導し各地方の支部長会等を通じて末端まで流された。

血脈相承で言えば、『日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。』とし しかし破門となると日顕上人の血脈相承否定し、過去においても稚児法主等を例に出し血脈相承は途切れていると主張した。何故 平成になってから日顕上人の血脈相承を否定するのか 何故その時否定しなかったのか。たしかに当時日蓮正宗の一部には日顕上人の血脈相承についての疑義があった。しかし当時日顕上人を支持したのは他ならぬ池田名誉会長であった。時系列に見ると全く整合性がない。


本尊で言えば
昭和51年1月・・・・・摸刻本尊を池田会長自ら開眼入仏法要を行う。
昭和52年1月・・・・・『もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです』
『お詫び登山』後・・・・・『法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである。』
破門後・・・・・日寛上人一機一縁の御本尊の一部を消去修正し会員に配布。そしてこの発言
『ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人がおっしゃっているんだ。

「南無妙法蓮華經」を商標登録するという神経の持ち主だから、このような発言の変遷は御本人はなんとも思っていないだろうが このような人を師と仰ぐほうがそもそもおかしい。
池田名誉会長のこういった類の発言が 学会員の信心を惑わし狂わしていく。『法に依って人に依らざれ』 まったく御金言の通りである。

 
時系列で見ると判る池田大作の無節操な発言変遷
昭和27年6月10日戸田城聖『聖教新聞』
「弘安2年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安2年10月12日に御図顕になられたのであります。『聖人御難事』に、建長5年より、余は27年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。 日寛上人は、大御本尊について 「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況(いわん)や一閻浮提総体の本尊なる故なり」といわれています。」

『大白蓮華昭和31年4月号戸田会長
国立戒壇の建立こそ 悠遠670有余年来の日蓮正宗の宿願であり また創価学会の唯一の大目的なのであります。」

折伏教典改訂32版戸田会長
いわゆる付嘱のないもの、これは偽札本尊といって、これらを本尊と立てる連中は、御本尊は誰が書いてもよいなどと考えているのである
・・・・・・・これ(一機一縁の御本尊)はちょうど、電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。」

(大白蓮華 昭和34年7月)戸田会長
ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしょうもない(中略)ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている、だからコワイ。」

聖教新聞(昭和37年6月16日)池田会長
邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ、教祖のために、教団の勢力のために、それも本当に人々を救えるならば許せるけれども、全部が地獄に落ち、民衆が教祖にだまされ、そして教祖は立派な家ばかりつくり、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが、邪宗教の姿です。
創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。


(聖教新聞・昭和38年8月3日付・池田会長指導)(会長講演集九−P359)
今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない。」


『大白蓮華』(昭和四一年九月号)
「よく信心の血脈を問題にする者がいる。生死一大事血脈抄に『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。誰でも自由に継承できるなどというのはこれだ。(中略)有名無実の信心をふりまわして、付属相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざではないか」

『現代』昭和45年7月号
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」

公明党議員と記念撮影で・昭和51年11月16日
天下を取れることが少し私には見えて来た。天下を取らない党なら、やる必要はない。私がひかえているから心配するな」

本部幹部会昭和52年1月)池田会長
もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです。」

昭和53年 『大白蓮華』1・2月号
「末法の御本仏日蓮大聖人は、本門戒壇の大御本尊として総本山大石寺の正本堂にましまして、そして、法灯連綿の御法主上人のお力によって分身散体されて全世界の各寺院、各会館に、おのおのの家庭に厳然とましますのであります」

観心本尊抄講義
「三大秘法総在の御本尊こそ、弘安二年十月十二日ご図顕の本門戒壇の大御本尊である」 

広布と人生を語る
「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。」

(聖教新聞 昭和53年2月26日)
「『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」

『聖教新聞』(昭和54年6月2日)
「日蓮正宗の教義の根本をなすものは、まず、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぐことであり、それはとりもなおさず、御本仏の出世の本懐である戒壇の大御本尊を帰命依止の根本とすることに尽きる。もう一つ日蓮正宗の根幹をなすものは、血脈付法ということであり、歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝持せられていることである。この二つの根本と、日蓮正宗の三宝、すなわち仏宝=御本仏・日蓮大聖人、法宝=大御本尊、僧宝=日興上人――とは、同じ意義をもっている」

聖教新聞昭和55年4月2日)「恩師の23回忌に思う」池田名誉会長
近年の宗門との問題が、昭和47年正本堂建立以降の 学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります・・・・・
たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました。・・・・・
もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。


『大白蓮華』
(昭和55年3月号)
「この(※生死一大事血脈抄の)御文は、別しての『法体の血脈』を大前提としての、総じての『信心の血脈』について、お述べになったものと拝される。(中略)ゆえに『法体の血脈』と『信心の血脈』を混同するようなことがあってはならないのである」

『創価新報』昭和60年12月 池田名誉会長
日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない。」

『広布と人生を語る』第8巻249頁昭和61年11月発刊 池田名誉会長
「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。」

『広布と人生を語る』第8巻228頁昭和61年11月発刊 池田名誉会長
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見から見ればわれわれと同じように見えるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである。」

広布と人生を語る』第四巻
「かりに御本尊も、一見すればたしかに物体であり、なくなる場合もあるようにみえるが、代々の御法主上人が、かならず御本尊の御図顕をなさってくださる。絶対の法が残されるのである」

(平成2年11月16日・本部幹部会)
文化運動、ね。文化も一生懸命、今、仏法を基調にしてね、文化・平和。文化は要らないと、謗法だ。
もうわけがわからない、ね。なんにも苦労していないから。本当のことを、社会を知らないから、折伏もしていないから。
猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。(中略)
全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いていろみたいにね。
それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者って。そんなのありませんよ、この時代に。時代とともにやればいい、学会は。(中略)
あくまで御書です。御本尊です、法は。これが解かればいいんです。あと、ちゃんと日淳上人、それから堀猊下、全部日達上人、きちーっと学会を守ってますよね。(中略)
50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から。馬鹿にされ、そいでその上北条さんが『もう、お先まっ暗ですね。』『何を言うか、60周年を見ろもう絢爛たる最高の実が、60周年が来るから元気だせ。』会長だから、これがよ。私は名誉会長だ。『そうでしょうか。』馬鹿かー。本当にもう、誰をか頼りに戦わんですよ、本当に(中略)
大聖人が我が門下の死は、私どもの死は、信者の死なんて言わないです、大聖人は。そういうことはほとんどないです。門下、我が一類とかね、正信会なんて『信者、信者』言って、みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。(中略)
今はですよ、出家ってもね、あのー、ちゃんと奥さんをもらって赤ちゃんつくってさ。 (中略)
700年間折伏がそんなに出来なかったんですよ。よーく知っていらっしゃるんです。今はもう当たり前と思ってね。威張っている人がいる。とんでもない(中略)

(平成4年5月22日・聖教新聞。池田名誉会長
謗法の現宗門には、大聖人からの成仏の血脈は完全に切れている。堕地獄の宗門となってしまった。これに従う人々も御書に照らし同罪である。

(聖教新聞) 平成5年5月5日 池田名誉会長
もとより、御本尊が、私どもの「根本尊敬」の対象であられることは言うまでもない。 そのうえで、曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。 当然、そこに計りしれない御仏意があられると拝されるが、曼荼羅としてあらわされた「法」は永遠である。いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である「久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。
日顕宗の言う「血脈」などは本当にナンセンスな話です。本来、宗教には、「仏と自分」との関係の信仰が重要であって、権威主義の「血脈」などは、信仰的には何の意味もない

(平成5年9月7日・本部幹部会) 池田名誉会長
「宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人がおっしゃっているんだ。」 


池田名誉会長『創価新報』H13.5.21)
「血脈」とは要するに「信心」であり、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、究極の法である一大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、異体同心の団結で広宣流布の実践に励む中に、万人に流れ通う


池田名誉会長『大白蓮華』H14.7)
日蓮大聖人の全生命は、仏意仏勅の広宣流布を遂行する創価学会に流れています。創価学会という和合僧団を離れて、大聖人の血脈も、信心の血脈も絶対にありえません


なぜ池田名誉会長の指導は変わるのか
昔と今はかわるとも、法華経のことわりたがうべからず
兵衛志殿御返事

戸田先生は次のように言われております
こうして見ていくと、池田創価学会は日蓮仏法の根幹法義をその時々の創価学会の置かれた状況に応じて変えている。
それは池田創価学会においては 創価学会が主であり日蓮仏法は従であるからに他ならない。創価学会が主であったことや その独善性は 昭和55年4月2日付聖教新聞の『恩師の23回忌に思う』で池田名誉会長自身が認めており、『日蓮正宗を離れて創価学会は永遠にありえない』とまで云っているが その体質は以後も変わらず、創価学会で云うところの広宣流布とは 創価学会の組織拡大や池田名誉会長の宣揚であり 日蓮仏法はそのため利用していると云っても過言でない。

池田創価学会は『日蓮仏法を基調とした、平和運動、教育活動、文化芸術活動、言論活動』を推し進めているとしているが、言葉では何とでも表現出来る。実態は『日蓮仏法を利用して、池田名誉会長宣揚運動、教育ビジネス、文化芸術ビジネス、出版ビジネス』を推し進めている。その顧客が学会員である。そのために寄付の見返りで集めた名誉称号を大袈裟な見出しで聖教新聞で宣伝し,『池田博士』『池田哲学』『世界が賞賛』等の何ら世間に通用しない言葉を濫用して学会員からの尊敬心をあおっている。

学会員から集めた金で原野を買い、墓地公園として整備し墓石を置いて会員に販売する。初期に買った学会員は遠路県外に墓参する羽目になる。聖教新聞に掲載した記事を単行本にして買わせ、次は池田大作全集として又買わせる。聖教新聞も『マイ聖教』、『一人一人が池田先生のご指導を勉強』というキャッチフレーズで 一世帯で学会員の人数分の購読を推進する。一家族で同じ新聞を3部も4部も取るなんて一般世間では考えられない異常さである、いかにも池田創価学会株式会社である。
そのため以前とは正反対の指導を平気で行うことは池田創価学会にとっては何でもないことなのである。『創価学会は仏意仏勅の団体である』とか『師弟』という言葉に酔っている学会員は全く無批判にこれを受け入れてしまい、もし学会員が疑問の発言をしようものなら『君は師弟というものがわかっていない』となってしまう。

池田創価学会の前歴を見ると、「南無妙法蓮華經」の商標登録 共産党宮本委員長の電話盗聴事件 藤原弘達の『創価学会を斬る』言論出版妨害事件 本尊模刻事件等 これらの事件から池田名誉会長の人間性を見るに 目的のためなら手段を選ばない人と評価されても仕方がない。脱会した元側近、幹部、議員に対する聖教新聞等の常軌を逸した誹謗中傷、名誉毀損また宗門批判のために悪意に満ちた偽造写真を掲載するなど、これらは池田名誉会長の人間性を証明している。

池田大作が会長にならなければ
破門も正本堂破壊もない
平成2年からの日蓮正宗との争いも 聖教新聞や創価学会主張を鵜呑みにすることは出来ない。創価学会では『宗門にC作戦なるものがあり、池田先生に嫉妬した日顕が池田先生 創価学会を突然破門した』との説明だが、そんな理由で宗門が最大のスポンサーで800万世帯の創価学会を切るメリットは何も無かった。
ことは平成2年11月16日 本部幹部会での池田名誉会長のスピーチに始まる。日頃池田名誉会長の発言に疑問を抱いていた学会員が当日のスピーチを録音し宗門に報告したのである。

なぜ池田名誉会長が突然宗門批判を始めたのか、平成2年11月16日以前に何があったのか。これは 正本堂建設計画の時から、日蓮仏法における正本堂の意義について日蓮正宗、創価学会、顕正会の対立があった。
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持て、有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。 時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏給ふべき戒壇なり。三大秘法抄
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主、此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒壇と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月日日蓮在御判血脈の次第 日蓮日興
(一期弘法付属書
正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
(昭和47年4月・日達上人訓諭)
 日達上人は正本堂に三大秘法抄の意義を一応は認めながらも 未だ広宣流布ではないので 現在は事の戒壇であるとの御指南である。事の戒壇とは弘安2年の本門戒壇の御本尊を御安置奉る処で本門戒壇の御本尊を御安置奉る処は何処でも事の戒壇である。それに対し、その他の御本尊を御安置する処は義の戒壇である。正本堂は将来広宣流布の時に 大石寺を本門寺と改称して三大秘法抄に説く処の本門戒壇堂と成り得る。と云う意味である。

池田大作の本質を見抜け
 しかし 池田名誉会長は 正本堂を三大秘法抄に説く処の本門戒壇との意義付けにこだわった。日蓮大聖人も成し得なかった本門戒壇堂の建立を池田創価学会が成し遂げ,『法体の広宣流布の完結』、立正安国の『立正』が整ったとして 自分を日蓮大聖人に並ぶ存在にしたいと云う野心があったのではないか。そのよい例がに本尊模刻事件である。そしてその頃から池田本物論、教義逸脱問題が出てくるが 単なる偶然ではなく自分のカリスマ性を高めるために 故意に仕掛けさせていたと考えるのが自然である。それが宗門から指摘され 所謂『お詫び登山』、会長辞任となり 後年『私は会長を辞めさせられた 弟子は私を守らなかった』と いかにも恨みにも似た発言にあるように 反省などではなく日蓮正宗に対する確執であった
以後も弘教は拡大し 全国の地方都市に学会会館が建設され、学会寄進の正宗寺院は300ヶ寺となる。池田名誉会長の期待は平成2年10月12日の大石寺開創700年法要で日顕上人が寺号改称の宣言をすることにあった。しかし同時に日蓮正宗との確執も表面化していった。
大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある
(平成2年10月12日 大石寺開創700年法要での慶賛文)
未だ広宣流布ではないので 大石寺を本門寺と改称出来ない、即ち現在の正本堂は三大秘法抄に説く処の本門戒壇堂ではないと 最終的に日顕上人より否定された。それが 池田名誉会長の日蓮正宗批判、血脈相承否定、創価学会破門、正本堂破壊と繋がって行く。本質は戸田先生の御精神から離れ 信徒しての分をわきまえない池田大作の慢心にあると云いたい。
お金の掛かる宗教は、邪宗である
前に言っていたことと、今言っていることが違う宗教は、邪宗である
或る人は利口気にいう。布教に、ラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだーと。何と浅はかな言であろうか。俗にいう、PRなど学会には絶対に必要ないのだ。これこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段にほかならない。正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである



学会員から集めた金で原野を買い、墓地公園として整備し粗末な墓石を置いて会員に販売する。元手のかからぬ墓苑事業



愚人に褒められたるは第一のはぢ
「愚人」とは「仏法の正邪」を知らない人である。
正法護持とはまったくかけ離れた、仏法の正邪を知らない機関から、勲章や称号をもらって、それを大々的に宣伝するような心根は、まさしく仏の教えに反した醜態である。
渡航費用や滞在費を負担した出張授与式を会員を集め大々的に行い、席上 受賞理由の中で自分を偉大な指導者と称えさせ 次にその偉大な指導者のスピーチが始まる。その内容は殆どが歴史上の人物や著名人の言葉の羅列であり それを自分にダブらせている。池田名誉会長が著名人の言葉を引用しても、逆に世の著名人が池田名誉会長の言葉を引用した例は聞いたことがない。

池田名誉会長は「開目抄講義」(大白蓮華2005年12月号19頁)で
「愚人に褒められたるは第一のはぢ」(開目抄)の部分を「世間の毀誉褒貶に左右される愚人に賞賛されることは最大の恥です。・・・・・・仏法者にとって一番大事なことは世法の評判などではありません。常に自分がその時代にあって、最も時に適った正法流布の闘争を繰り広げられるかどうかです。」と講義している。まさに自語相違の典型である。

(聖教新聞・昭和38年8月3日付・池田会長指導)(会長講演集九−P359)
今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない。」


学会員は『こんなに勲章や名誉称号をもらっているのは世界中で池田先生唯一人』と思っている人が多いが実はそうではない。

北朝鮮総書記
韓国統一教会教祖
創価学会名誉会長
立正佼成会会長
法の華三法行 教祖  
金正日
文鮮明
池田大作
庭野日鑛
福永法源

名誉称号の多さで『世界が認めている』のなら上掲の人物も『世界が認め』『世界が賞賛』となってしまう。ただ池田名誉会長が他の4人と違うのはそれを大々的に自画自賛していることだ。
 三大秘法から離れた池田創価学会は、『宝石の入っていない宝石箱』
日蓮正宗が破門通告をしたのは平成3年11月28日であり 平成2年11月16日の本部幹部会から約1年経過してからのことである。創価学会では『突然の破門』と云うが、その間、機関紙上で捏造写真まで使った日顕法主攻撃、日顕法主退座要求署名運動、宗門の化義を無視した友人葬の開始等、日蓮正宗が創価学会を破門せざるを得ないよう仕向けた。

正本堂の意義が池田大作の意のままにならないから、以前から画策していた宗門からの離反独立を決行したのである。そして、自分の野望のため『破門された』被害者の立場を装い、下劣な宗門批判で会員を欺いた。実に汚いやり方である。池田大作が心から本門戒壇の御本尊を信じ 会員の幸福を願っているのなら、どんな事があっても一般会員を本門戒壇の御本尊から引き離すことはしない。この一点が池田大作の本質を見抜くポイントである。

三大秘法から離れた池田創価学会は、例えて云うと『宝石の入っていない宝石箱』であり、いかに立派に見えても何ら価値は無く、『魂の独立』等と宗門からの離反を正当化しても。もはや池田創価学会は存在意義を失っている。
『空の宝石箱』だから、中に入れる宝石が必要になってくる。それが池田本物論を匂わせる『師弟論』であり 名誉称号収集なのである。今後益々池田神格化は強まり、それは創価学会の邪教化を意味する。


池田創価学会の本質を証明する資料
資料1 資料2 偽善者 資料3
資料4 資料5 資料6 頭破作七分


創価学会の脱講運動は本門戒壇の御本尊に敵対する大謗法
御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない
-戸田会長
 私は昭和60年の入信で地元正宗寺院で御授戒を受け 本山に参詣し御開扉を受けた。その時の感動が今でも思い出される。御法主上人の荘厳なお題目に合わせ唱題し 過去遠々劫現在満々の謗法罪障消滅の御祈念をした時のあの清々しさ、心身共に洗われるような気持ちで涙が出そうになった事を覚えている。正に信仰の原点はここにあると思う。
揶揄するにも程がある 『登山地獄』とは池田創価学会ここまで堕ちたか
最近『創価新報』の一面記事に『登山地獄』という大見出しで 日蓮正宗が如何に本山参詣を煽り法華講信徒が悲鳴を上げているか 創価学会お得意の歪曲記事が掲載されていたが、それにしても本門戒壇の大御本尊にお目通りすることが『地獄』だとは創価学会もついにここまで堕ちたかの思いで怖くなる。そのような言葉は もはや御本仏日蓮大聖人の信者ではない。口を開けば日蓮大聖人直結だの 日蓮大聖人のご精神だのと云っているが 日蓮正宗に敵対するだけではなく本門戒壇の大御本尊即日蓮大聖人に敵対していることが解らないのだろうか。
日蓮が魂を墨に染めながして書きて候ぞ 信じさせ給え 仏の御意は法華経なり。日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
(経王殿御返事)
三大秘法其の体如何、答う 余が己心の大事之に如かず
(三大秘法抄)
無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。
(御義口伝)
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。
(御義口伝)
就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。
(日寛上人 観心の本尊抄文段)
今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画
と謂うこと勿れ
(日寛上人 観心の本尊抄文段)
これらの御文から 本門戒壇の大御本尊は即日蓮大聖人と拝すのが当たり前のことで、本門戒壇の大御本尊にお目通りすることは即日蓮大聖人にお目通りすることなのだが 本門戒壇の大御本尊を『幸福製造機』だの『ただの物』などと言う池田創価学会は 最早本門戒壇の大御本尊を即日蓮大聖人と拝すことが出来なくなっている。座談会等で如何に上手に阿仏坊御書を講義しようとも、ただ空しいだけ。そして学会員の信心は徐々に狂ってきている。

破門以降 創価学会には教宣部という組織が出来 法華講員を正宗寺院から引き離す脱講運動が行われている。しかし成果はあまり上がっておらず 秋谷会長が左遷されたのもこの成果が上がらなかったのが原因とも聞く。脱講運動は大謗法である。私は機会があると教宣部員に組織から打出しがあろうとも、そのような事はするなと言っている。脱講運動は本門戒壇の大御本尊にお目通りすることを妨害することで、阿仏坊に対し 日蓮大聖人にお目通りするなと言う事と同じであり本門戒壇の大御本尊に敵対する行為である。御書講義と行動がまるで反対で、仕舞には悩乱していく。熱心な教宣部員ほど相が悪くなり、感情的になって反論してくる。しかもその人はニセ本尊を受けている。二重の大謗法である。

四条金吾殿御返事
我が身法華経の行者ならば(中略)
多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべしはげむべし。
南条殿御返事
参詣遥かに中絶せり、急々に来臨を企つべし、是にて待ち入って候べし
日寛上人 寿量品談義
未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。

「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉御供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。」
(『戸田城聖全集』第3巻490頁)

「先代牧口先生当時から、学会は猊座(げいざ)のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。」
(『戸田城聖全集』第3巻235頁)

「私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことは当たり前のことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない。」
(『戸田城聖全集』第4巻237頁)



池田創価学会ではこれ以上の弘教拡大は出来ない
地方組織の崩壊が始まっている

本師既に曲れり末葉豈直ならんや 源濁れば流清からず--太田入道殿御返事
日蓮正宗を離れて 在家創価学会はこれ以上の弘教拡大は出来ないと断言する。
池田名誉会長を宣揚し、世界平和活動や文化活動をアピールしても折伏とは云えず せいぜい理解者である。仮に折伏をしてニセ本尊を受けたとしても本門戒壇の大御本尊に謗法罪障消滅の御祈念をしなければ本当の意味での折伏にはならない、御本尊の大確信が得られないのである。まして寺院もなく僧侶のいない創価学会に邪宗といえども先祖からの宗旨を捨ててまで入るとはとても思えない。いくら聖教新聞を推進しても 現実に入会はなく たまに入会があったとしても家族に隠した一人信心で家の謗法払いも出来ない状況である。そして草創期以来の学会員は徐々に亡くなって確実に世帯は減少していく。
『破門後の創価学会には寺院もなく僧侶もいない、』・・・・このことは『我が家』の宗教として選択するに適格性を欠いている。創価学会は『宗教改革だ』、『宗門は葬式仏教だ』等云っているが、結婚式 地鎮祭 七五三 葬儀 法事等 『我が家の慶弔事』が伝統的な化儀の下に行われてこそ慶弔事の厳粛さがあり 新興宗教ではなく 『当家の宗旨』として子孫が認識し継承していけるのである。それが確実な広宣流布につながる。破門後の創価学会では、派手な活動はしていても『個人の信仰』レベルが多く 子供が結婚して別世帯になっても御本尊を安置することが出来ず、『当家の宗旨』として継承されない家庭が多いのは、子供からも新興宗教と見られているからだ。奥さんだけが信心している所謂一人信心は先祖からの他宗寺院との縁が切れておらず、ご本人が亡くなればご本尊が返納されるのは通例である。

創価学会では『組織は学会員のためにある』と云うが、実は反対で選挙、聖教新聞、池田名誉会長を宣揚する催し物の人集め等 学会員が創価学会に奉仕しているのが現状である。日蓮正宗時代は、広宣流布のため、信心活動として受取ることも出来たが、三大秘法を離れて真の広宣流布はなく 会合では日蓮正宗、僧侶批判に終始し『師弟』が強調される。とてもまともな信心活動とは云えない。極端な池田先生崇拝者がいる一方、この事に気付き始めている学会員もおり活動家は年々減少している。会員名簿を見ても非活動家と死亡退会が目立ち、組織活性化のためにブロック、地区の統廃合が進んでいるが組織崩壊は止まらない。私の地域では市会議員を2名立てているが、5・6年後はとても2名は無理な状態である。
宗門を離脱し敵対することは邪宗を意味する。
正に池田創価学会は、四恩抄、新池御書に説く末代の凡夫そのもの姿に堕ちてしまった。創価学会は日蓮正宗に復帰し僧俗和合して広宣流布に励むべき。
池田名誉会長は800万世帯の学会員を本門戒壇の大御本尊から引き離したことに責任を取るべきなのである。
(四恩抄)
仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。
末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん
新池御書
末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなずり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。 法をこころえたるしるしには、僧を敬い、法をあがめ、仏を供養すべし。 今は仏ましまさず、解悟の知識を仏と敬うべし。争でか徳分なからんや。 後世を願わん者は名利名門を捨てて、何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬うべし。是正しく経文なり。


曽谷入道許御書
内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん

戸田城聖全集
良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私はひじょうに光栄とするものであります

創価学会発展の陰に日蓮正宗あり
根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長し
よく今日のように日蓮正宗が大きくなれたのは創価学会のお陰だと云うが、実はその逆の理論も成り立つのである。

草創期において、何故創価学会は爆発的な弘教を成し得たのか。検証する必要がある。
それは創価学会のバックに日蓮正宗があったからなのだ。つまり冨士大石寺700年の歴史伝統、本門戒壇の大御本尊、日蓮正宗の教義がそれを可能にした。創価学会はそのことを認識しなければならない。日本人は伝統を重んじ新興宗教を嫌う。冨士大石寺700年の歴史伝統が信用を生み創価学会は新興宗教という壁を乗り越えることが出来、私もまた冨士大石寺があればこそ その信徒団体である創価学会に入会したのである。

次に信仰の対象であるところの 弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊の御存在ある。
そして、文証理証を根幹とした日蓮正宗の教義だ。何に対して信仰するのか、本門戒壇の大御本尊とは何であるか、どのような祈りをすればよいのかが明確に説かれていた。また我が家に御安置する御形木本尊の意義も明確であった。戸田先生の確信に満ちた信心指導は学会員に自信を与えた。その中で広宣流布と謗法罪障消滅の祈りの結果 仏力法力、信力行力があいまって弘教が拡大し功徳の体験も生まれていったのである。
いろいろと問題はあったにせよ『日蓮正宗創価学会』だったからこそ両者の発展があったと思う。
まさに 
根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長し』であったが 『戸田会長の悟達が創価仏法の原点』だとか『池田哲学』云々等の慢心は一瞬にして『根浅く源近し』にしてしまった。擬似本尊を発行するに至っては、『源濁れば流清からず』で、池田創価学会の崩壊は御書に照らして明らかである。


池田創価学会の都合に拠る御書解釈
信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。幸福製造機だ
それに対し今の創価学会は 信仰の対象、教義が曖昧である。表面上は本門戒壇の大御本尊が信仰の対象であると云っているが 実際に直接拝む事が出来なくては信仰の対象とはならない。我が家の子供たちも 時たま勤行し 『一閻浮提総与 三大秘法の大御本尊様云々』と御観念文を読んでいるが 直接拝んだ事が無ければ実感として三大秘法の大御本尊が心に沸かばないのである。
破門以降 創価学会では.池田名誉会長の指導に見られるように 日女御前御返事の一部の御文を出し『己心の本尊』を重視し『外なる本尊』を軽視する傾向がある。
宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人がおっしゃっているんだ。
(平成5年9月7日・本部幹部会)
この発言は二通りの解釈が出来る。
@・・・信心が無い者にとっては只の物、単なる物質、猫に小判。
A・・・『外なる本尊』よりも『己心の本尊』が大事。『外なる本尊』は『己心の本尊』を顕すための手段、道具
池田名誉会長の真意が@にあるのなら、全くその通りで異論を挟む余地は無い。しかし最後の発言が之を否定している。
『一応の。機械です。幸福製造機だもの。・・・・・』との発言は 池田名誉会長の真意がAであることを示し、しかもこの発言がニセ本尊発行に前後して行われたことは、学会員の信仰心を本門戒壇の御本尊から遠ざけることに目的があったと判断せざるを得ない。御本尊は手段や道具ではなく信仰の対象そのものである。
たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず 肉眼は黒色と見る 二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る
(法蓮抄)
今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うこと勿れ
(日寛上人 観心の本尊抄文段)
池田名誉会長の果報にしたがつて見ると 本門戒壇の御本尊はただのモノ 幸福製造機と見えるらしい

此の御本尊全く余所に求る事なかれ 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて 曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只 信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。
 日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべしたしなみ給ふべし、穴賢南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏に なるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
(日女御前御返事)
御書を拝読するに当たっては 『依義判文』、『義に依って語に依らざれ』の御金言を念頭に置かなければならない。義は御文全体とその御書が書かれた背景から判断できる。
この日女御前御返事(本尊相貌抄)の背景としては 下記の3点が挙げられる。
@・・・・日女御前は御本尊を下附されていること。
A・・・・日女御前は武家の妻女であり、学識にも優れ経済的にも恵まれていたこと。
B・・・・日女御前は御本尊の相貌について質問していること。

この御書は日女御前が下附された御本尊を正しく持って行くためになされた信心指導である。
この大前提に立たなければ 日蓮大聖人の御真意は拝せない。したがって『此の御本尊全く余所に求る事なかれ』や『此の御本尊も只 信心の二字にをさまれり』の御文を切り文し、義に依らず語に依って 外なる本尊を軽視するが如き解釈は全くの誤りである。

この御書の前半は御本尊の相貌についてご説明され日女御前の質問にお答えになっており、後半は信の大切さを述べておられる。しかも止観 弘決 華厳 外典を例にとり何度も言葉を替え 信が仏法の根本であることを述べておられる。
このことは 日蓮大聖人の御心は、日女御前が学識がある故に 御本尊を頭で理解しようする智解を御心配されていたものと拝される。文上では以信得入と述べられるが、文底では非己智分、『己が智分に非ず』であり、日女御前の御本尊に対する信心を智解から信解へと御化道されているのがこの御書の義である。

『此の御本尊全く余所に求る事なかれ』の御文は 後段の『九識心王真如の都』、『十界具足』の御文と併せて拝さなければならない。これは 一心法界 一念三千を御本尊として顕されたことを述べられているのであって 『観心の本尊』を意味している御文である。それまでの日蓮大聖人の御化道は題目中心であり 方便として釈迦仏像等の木画をお認めであったが 御本尊を顕し所縁の境としたため 釈迦仏像等と御本尊の捉え方の違いをご指導されているのである。

『此の御本尊も只 信心の二字にをさまれり』の御文の解釈は 其処で切ってはならず 『以信得入とは是なり。』 の御文も含めて解釈しなければならない。以信得入とは非己智分であり 『只 信心の二字にをさまれり』とは 言外に日女御前の智解を破折し信解の大切さを示されている。このことは後段の御文でも尚一層強く感じられる。『此の御本尊も『も』とは、妙法蓮華経譬喩品第三舎利弗が以信得入したように此の御本尊も以信得入 非己智分であるとの意味である。
浅識は之を聞いて 迷惑して解らず 一切の声聞 及び辟支仏は 此の教の中に於て 力及ばざる所なり 汝舎利弗 尚お此の経に於ては 信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや 其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず妙法蓮華経譬喩品第三


池田名誉会長は『只信心の二字におさまれり』の御文を『信心の二字の中に
しか本尊はないんです。(外なる本尊は)ただのモノ 幸福製造機です。』と極論し日蓮大聖人の御真意をねじまげている。『ただのモノ 幸福製造機』と云う認識で拝む信心の中に 御本尊が収まっているとはとても思えない。
日蓮仏法における『法』とは成仏の法である。成仏の法とは法華経の本門寿量品の文底秘沈の一念三千の法門』である。御本尊は草木で物質であり非情としての御存在であるが 有情である生身の人間も又物質の集合体である。そしてその物質に一念三千が備わっているのである。十界互具 百界千如に三世間が備わっている。三世間とは五陰世間、衆生世間、国土世間である。 五陰世間、衆生世間は有情であり国土世間とは草木世間であり非情である。この三世間は有情にも非情にも備わっている。つまり有情は非情を具足し 非情は有情を具足しているのである。
(日寛上人 観心の本尊抄文段)
凡そ草木成仏とは、一往熟脱に通ずと雖も、実はこれ文底下種の法門なり。
今謹んで諸御抄の意を案ずるに、草木成仏に略して二意あり。
一には不改本位の成仏、二には木画二像の成仏なり。
初めの不改本位の成仏とは、謂く、草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり。
応に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差えざる智慧は本覚の報身なり。
有情を養育するは本覚の応身なり。故に不改本位の成仏というなり。

二に木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。
二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、
此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ 画木にて申せば草木成仏と申すなり」と云云。
またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、
本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

また 『ただ信心の二字におさまれり』の信心とは 『外なる御本尊』に対する信であり、『御本尊が胸中にあること』を信じる事ではない、十界互具の己心に仏界が具足していると言っても 縁が無ければ成仏と言う果報は得られない。信とは『外なる御本尊』に対する帰命であり 『外なる御本尊』に題目を唱えることである。
一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。 此の信の字は元品の無明を切る所の利剣なり(御義口伝)
『外なる御本尊』を即 末法の御本仏日蓮大聖人と拝し奉り 南無妙法蓮華経と唱うる胸中に『己心の本尊』があるのであって 無条件・絶対的にあるのではない。 我々衆生は 『己心の本尊』を優先してはならではないのであって このことは下記の御文でも明らかである。
能開所開を弁へずして物知りがほに申し侍るなり
題目弥陀名号勝劣事
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候

曽谷殿御返事
当に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。
若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん(中略)
我等、法力により信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず
観心本尊抄文段
夫れ 本尊とは所縁の境なり 境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず 
(文底秘沈抄
衆生が 正しい対境なしに『己心の本尊』を観じて無上菩提の境地に至れるのならば、日蓮大聖人が信徒にご本尊を御下付されたことや 弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊御図顕は何のためかと言う事になる。

池田名誉会長のこういった類の発言を時系列に見ていくと 宗教法人創価学会のために学会員を従属させておくのが目的であって、学会員の信心向上や幸福実現のためではない事は明らかである。 学会員は信心指導の変遷に戸惑いを感じつつも 『御本尊は何でもよい、心が大切』、『御本尊がなくとも池田先生についていく』、『池田先生の御本尊なら喜んで拝む』等々 大謗法と云うべき発言をする学会員が増えてきている。まさに日寛上人の『故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず』の御文通りの現象ではないか。

もし創価学会が最初から 例え日蓮大聖人をご本仏と奉り、本門戒壇の御本尊に帰依していたとしても、血脈相承を否定し 御本尊はどれも同じとして独自の本尊を配っていたら今日の発展はあっただろうか。在家が勝手にニセ本尊を発行し、本家本元の日蓮正宗を『邪宗』呼ばわりする悩乱池田創価学会。今の創価学会では池田名誉会長を崇拝する人は残れても 本門戒壇の大御本尊を信じる人は残れない。



御書と池田名誉会長の妙法観・本尊観の相違
池田名誉会長 御書

宇宙のことごとくの運行、現象を引き起こす根源の力として、妙法がある。その妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。 
(パナマ信心懇談会 S52・2・24)

結論としていうならば、この大宇宙のいっさいの運行の源泉、法則こそが南無妙法蓮華経なのである。その南無妙法蓮華経を具現化なされたのが日蓮大聖人であり、その顕された御当体が根本尊敬の御本尊なのである。
(第一回メキシコ信心懇談会 S56・3・4)

妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法であり、いかに疑おうとしても疑えず、いかに否定しようとも、否定しえない根本中の根本の法則である。
(第7回未来会総会 S62・6・27)

曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。
(聖教新聞) H5・5・5

トインビー博士は常に、「宇宙の背後にある究極の精神的な実在」について語られていた。(中略)トインビー博士は私との対談の一つの結論として、この精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』であると考えられるとされた。ワーズワースが歌い、トインビー博士が求められた究極の『法』は、『妙法』であると私どもは信ずる。
聖教新聞H6・6・12)

本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。
(聖教新聞H7・8・2)


一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く・・・・
若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずそ法なり、そ法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり・・・
若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり・・・・
抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心不思議なる処を妙とは云うなり

(一生成仏抄)

無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。
(御義口伝)

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。
御義口伝

久遠元初の天上天下唯我独尊は日蓮是れなり。
(百六箇抄)

本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。この時法を尋ぬれば、人(にん)の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時人を尋ぬれば、法の外に別の人なし。
法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法一体なり。故に事の一念三千と名づくるなり。
(観心本尊抄文段)

大聖人様の御当体を離れて、南無妙法蓮華経は有り得ないのです。それを、大聖人様のところを離れて、「妙法だけが宇宙に存在して、その妙法のリズムに合わせる」というような考えを持つことは、全くの誤りであります。それでは自分自身の我見によって、外道の考え方で妙法を考えていることになってしまうのです。
(日顕上人 大日蓮559号)

池田名誉会長の妙法観・本尊観は 日蓮大聖人の仏法とはおよそかけ離れた己義・迷言である。
日蓮仏法における『法』とは成仏の法であり 成仏の法とは法華経の本門寿量品の文底秘沈の一念三千の法門』である。宇宙の法則とは別次元の話である。

最新宇宙論で云う処の宇宙の法則とは 物理的法則・相対性理論・量子力学で代表され、しかもそれらは宇宙の謎の一部が解明されたに過ぎない、それを超える『宇宙を貫く根源の法』なるもが存在するのか否かは、現在に至っても解明されていない。
つまり池田名誉会長の『宇宙を貫く根源の法』とは ご自分の漠然とした想像であって 存在するのか否かも判らない得体の知れない何かを 妙法だと云っているに等しい。

トインビー博士は歴史学者であって宇宙物理学者ではない。まして仏教経典や御書に縁もゆかりも無いキリスト教徒である。そのトインビー博士が求めた『究極の法』は、外道の生命観から出たものであって、それを『妙法』と関連付ける必然性は何処にあるのだろうか。
一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く・・・・
一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず 一念の心に収めて此の一念の心法界に満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし
(一生成仏抄)
今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る
(法蓮抄)
法蓮抄の上記御文を宇宙論に置き換えるとするならば、現在の地球人が 餓鬼か人か、又は天人かは判らないけれども、地球人としての果報に随って宇宙を見、理解しているに過ぎない。遠く離れた所に別の知的生命体が存在し その果報に随って宇宙を見ると 地球人の理解とは全く別のものになっている。
正報の果報に応じて依報がある。すなわち 池田名誉会長の理解するところの『宇宙を貫く根源の法』は 地球人としての果報に縛られた宇宙の部分観であり 『水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり』の意味する処である。
御本仏日蓮大聖人の智慧であられる南無妙法蓮華経は 六道九界の果報を超えた処にある無作の悟りであって、六道の果報に縛られた凡夫の浅知識では遠く及ばず、只、信を以って入るのみである。したがって、『宇宙を貫く根源の法』が南無妙法蓮華経であるなどの発言は 凡夫の浅知恵で御本仏の悟りを講釈するものであって 慢心と言わざるを得ない。
諸仏智慧甚深無量 其智慧門難解難入 一切声聞辟支仏所不能知
(妙法蓮華経 方便品第二)

創価学会のための池田名誉会長批判
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