法に依って人にらざれ
創価学会のための池田名誉会長批判
法門をもって邪正をただす
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聖教新聞記事の欺瞞を暴く
トインビー池田対談『21世紀への対話』
「西洋と東洋の英知の融合」
「21世紀へ人類がいかに進むべきかの重要問題をめぐり通算10日間近くにもわたって行なわれた対談」
「過去の文明史をくまなく訪ね歩いた老碩学と、生命哲学の真髄を体して世界平和への布石に熱誠を傾ける少壮の実践者と――。洋を東西に分かつ両者を対話の場に引き寄せたものは、歴史の未曾有の難所にある現代世界に力強い警世の助言をとどめようとする共通の巨大な責任感であった。対談集には両対話者のなみなみならぬ人類愛の発露が随所に光彩を放っている」
「人類存続のために考察を必要とする懸案は、あますところなく、論究されている」 
「随所に輝く未来双肩の英知」
聖教新聞記事 (昭和50年)

今、対談集は24カ国語に翻訳されて各国で反響を広げ、多くの世界の指導者が座右の一書に加えている。なぜなら、そこからは、混迷する現代の闇に光を送る、信念の共鳴が読みとれるからだ。
平和原点の地・広島でトインビー・池田大作展 平成17年)

この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、二人のおしゃべりを収録したものです(中略)
私の祖父は、日本を訪問した際、まったく池田氏には会っていません。祖父の昔からの日本の友人達も、祖父の最晩年の、どちらかというと漠然としたインタビューをもとに、池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書きたて、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々しく思っていました。(中略)
すべての行事が素晴らしいものであるかのように繕われ、写真が撮られ、そっけない型どおりの会話が、あたかも非常に重要な会談であったかのごとくに取り扱われ、記事にされたと。
トインビー博士孫娘 ポリートインビー  1984年5月19日付・英紙『ガーディアン』

当時、特別書籍と聖教のスタッフをあわせて文書課という代作担当の部門をつくり、私が文書課長をしていました。 もちろん大作さんはほとんど見ないで、そのまま本にした。彼はいつもそうでした。トインビーとの対談集だって、実際に対談したものは一つも載っていない往復書簡集です。桐村さんが原稿を書いて出すでしょう。すると、すぐに「翻訳!」です。翻訳ができると、次は山崎鋭一(欧州責任者)さんを通してトインビーに届ける。トインビーは自分一人で質問を書いたり、質問への応答を書いたりする。こちらに届くと、またすぐに「翻訳!」となる。そして桐村さんのところに回ってくる。いちばん読んでいないのは大作さん。
原島 嵩(元創価学会教学部長)



トインビー博士孫娘が池田名誉会長と対談した時の聖教新聞記事 昭和59年4月28日

「池田SGI会長夫妻は27日夕、故アーノルド・トインビー博士の令孫に当たるポーリー・トインビーさんとその夫で英『ガーディアン』紙の論説委員であるピーター・ジェンキンス氏と、東京・信濃町の聖教新聞社で約2時間半にわたり懇談した。
 ここでSGI会長は、夫妻の来訪を心から歓迎し、『来日以来、多くの方々との会談でお疲れのことと思います。どうか、きょうは、くつろいでゆっくりと懇談しましょう』と述べ、トインビー博士との思い出を交ながら歓談。
ポーリー夫人が『祖父(トインビー博士)が生きていましたら、訪日をどんなにか喜んだことでしょう。祖父は何度か来日し、大変楽しかったと言っていましたから』と結ばれ、SGI会長は、『博士との思い出は数多くあります。とうてい語り尽くすことはできません。大変にかわいがってくださいました。最も思い出の深い方でした』と、博士を懐かしく思い起こしながら語った。(中略) 
そして夫人が『博士とSGI会長の対談集を読めば、そこには博士の口調がよく表われており、対談に次第に熱が入り、高まっていった様子が、ほうふつと想像される』と述べれば、SGI会長は『実はまだ、未公開の原稿があるのです。そこには博士の個人的な問題についての対話もあります』と。(中略) 

さらに博士との対談が終わったとき、SGI会長が『私はトインビー学校の卒業生になったと思いますが、成績は何点ですか』と尋ねたところ、博士は笑いながら『群を抜いた優等生です』と言っていたことをユーモアを交えながら紹介。そして『若い私に対し、将来への厳しいアドバイスを』と要望したことを紹介。ジェンキンス夫妻に『それは何だと思いますか』と笑顔で語りかけた。
 それは全く、予想外の答えで『私は学者で机上の人だ。あなたは勇敢に仏法を流布している実践の者だ。私はアドバイスする立場ではない。いつまでも健康で勇気をもって進んでください』との言葉であったことを述べ、博士の謙虚な姿勢に深い感銘を覚えたと語った。(中略) 
SGI会長は、(略)世界の著名人と対談を続けていることを語った。 ポーリー夫人は『それをうかがい、安心しました。トインビー博士が最初で、最後であってはいけません』と笑顔で述べれば、SGI会長も『私は博士を正しく紹介しゆく一人と思っております。これからも博士を世界に宣揚していきたい。ぜひ応援を』と望んだ」



porry_report トインビー博士孫娘の手記
『私は見た 池田創価学会の実態を』 (1984年5月19日付・英紙『ガーディアン』
日本に着くまでの長い時間、私は祖父の死後に出版された本『生命の選択』 (※邦題『21世紀への対話』)を読みました。この本は祖父と、池田大作という日本の仏教指導者との対談を収録したものです。 この対談がなされた時期は、歴史家だった祖父アーノルド・トインビーが85歳の時で、脳出血で倒れる少し前でした。この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、二人のおしゃべりを収録したものです。
数ヶ月前、突然、池田氏のロンドンの代理人から電話があり、“祖父を偲び、また、祖父への感謝の気持ちを現わす意味で、私と夫を日本に招待したい”とのことでした。 祖父が死んでから8年も後だっただけに、私達はちょっといぶかしく思ったのですが、これが西洋人には理解のできない、日本人特有の“恩”とか“家族意識”とかいったものなのかもしれない、と思いました
(中略)
とうとう彼と会う夜がやってきました。大きな黒いリムジンで、豪華な本部に入っていきました。入り口はカメラのライトで昼間のように明るくなり、深くおじぎをしたままの側近や信奉者に囲まれて、池田夫妻が立っていました。 この予想もしなかった出迎えぶりに、私達は、目がくらみ、ドギモを抜かれました。 私達は、彼のもとに導かれ、小さな丸々と太った手と握手しました。そこに立っていた彼は、背の低い、太った男で、髪の毛は油で固められ、上等なスーツを着ていました。 フラッシュがたかれ、映画のカメラが近づき、私達は大勢の人々とともに、白いドレスを着た女性がおじぎをしている列の間を通り、とてつもなく大きな広間へと入って行きました。 その大広間には、大きな白いアームチェアーが並べられており、私達は、上座にある、王座のようなイスへと導かれました。 イスは私達夫妻に1席ずつ、そして池田氏に一つです。 池田氏は英語を話せないので、私達の後ろには、世界中どこへでも彼のお伴をする、若くて美しい通訳が座りました。 彼女はマイクの前に座り、私達の一言一言を全て、並んで座っている側近や信奉者達に聞き取れるようにしていました。 
(中略)
私達は、約30分間、大衆の面前で、シャンパンをグラスの中で揺すり、スモークサーモンを食べながら、ロンドンと東京の天気について、また都市や風景についてなど、とにかくどうしようもないくらい、たわいのない会話をしました。その間、広間に居並ぶ側近達は、厳粛にうなづくのでした池田氏の話し方は、傲慢かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。 時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。 私達は、形だけの会話をしながら、この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした。 「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても、“宗教家”と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。 私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。 彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋轢に触れないよう、守られてきた人間なのでありましょう。 私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。 

夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。 テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです。 「あまり堅苦しい話は、今夜は止めにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。 私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました。
(中略)
 「彼(※トインビー博士)はじつに偉大な方でした。」 池田氏は、私の方へ身を乗り出したままの姿勢でそう言い、私をジッと見ました。 「世界でもっとも偉大な学者です」とも言いました。 私は、こうしたコメントが、どこか、よその家族に関する見当違いの話ではないか、との考えが頭をよぎりましたが、すぐに心の奥にたたみ込みました。 「私の使命は、彼の作品を全世界の人に読んでもらうようにすることです。そのために、あなたも協力してくれるでしょうね」と言われ、私は「ノー」とは言えませんでした。 「約束しますね? 約束してくれますね?」と言われ、彼が私に何を期待しているのか、不安に思いました。 「そこで突然、彼は“トインビー・池田会談で、まだ出版されていない部分があり、近いうちに出版にこぎつけられる”という事を明かしました。 この旅行の目的の一部が、ここで明らかになった訳です。 
(中略)
また、食事が進む中で、気まずい思いをする瞬間がありました。 彼は私達に、「トインビー博士は別れ際に、私にどんな戒めの言葉を与えてくれたとおもいますか?」と質問してきました。 考え抜いたあげく、夫が少しヤケ気味に「貪欲であってはならない、ということでしょう」と答えてしまいました。 すると池田氏の大きな顔は、氷のように冷たい表情に一変したのです。あたかも武士達でも召集して、私達を外へ引っ張り出すのではないか、とすら思えました。
(中略)
翌日、創価学会の全国紙『聖教新聞』の第1面に、夕食時の私達の写真と対談の模様が載っていました。記録(録音)されているなどとは、誰も教えてくれませんでした(もっとも、載っているのは主に池田氏の言葉を伝えたもので、私達は、池田氏の支持者のような形で出ているだけだったの、で大したことではありませんでしたが)。 
(中略)
私達が、とうとう我慢できなくなったのは、広島での会食会のときでした。 私達が、創価学会と池田氏との在り方について、その感想を正直に述べたところ、接待役のメンバーは、恐れおののき、その場をなんとかとりつくろって、私達の言葉は最初から聞かなかったかのように振る舞いました。 私達は、池田氏との真剣な会見ができるよう頼んだのですが、それが池田氏に取り次がれたとは思えません。私達が最後に池田氏に会ったとき、彼の表情からは、私達の声や要望が伝えられている様子など、まったく見られませんでしたか。
(中略)
私達はそれっきり彼とは会いませんでしたが、彼からの別れの贈り物を見て、誰も、私達の彼に対する怒りの気持ちを伝えていないことがわかりました。彼は私達に、絹で製本された大きな本をプレゼントしてくれたのですが、それは、本文などなく、ただ296ページにもわたって、彼自身と彼の家族の写真だけが納められた、驚くべきナルチシズムそのものの本でした。
(中略)
この旅行は、いったい何のためのものだったのか、それは、帰途につくまでに、すべて判明しました。私達は来日中、新聞やテレビのインタビューを受け、夫のピーターは国際情勢について、私は祖父について質問をされました。インタビューを受けるたびに、大衆の目には、池田氏とアーノルド・トインビーの仲が、より親密なものとして映ったと思います。池田氏は、自らをトインビーの、公けの代表的な親友であり、スポークスマンであるかのように見せるため、記事やフィルムを造らせたのです。私は祖父が、日本でどれだけ有名で重んぜられているのかを、まったく知りませんでした。「オーダー・オブ・ライジング・サン」で受賞してから、祖父の著書は全ての大学で必読書となっていました。また、東洋の興隆と西洋の衰退を予言したとして、長い間、彼は日本で崇拝されてきていました。有名な学者によって運営されるトインビー協会もあり、その何人かの人を祖父は昔から知っており、協会では年4回、雑誌も出しております。私の祖父は、日本を訪問した際、まったく池田氏には会っていません。祖父の昔からの日本の友人達も、祖父の最晩年の、どちらかというと漠然としたインタビューをもとに、池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書きたて、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々しく思っていました。
(中略)
私達が日本を出発するとき、池田氏の秘書が横に来て、「初版で洩れた部分を、池田・トインビー会談の2冊目として出版したいが、その手助けをしてくれるか、どうか」と尋ねてきました。出版および著作権で、何か問題があったようです。また、1985年6月に池田氏がイギリスに行く予定があり、それで何らかの手助けが必要だったようです。それが何だったのかは明らかにされませんでしたが、少なくとも私達を利用しようとしていたのです。
(中略)
私達は、イギリスに戻ってから、池田氏により招待され、また彼の訪問を受けたりした何人かの人物に、電話を架けてみました。尋ねられること自体が不愉快、という明らかな反応を示した人もありましたが、何人かは、池田氏の名声を高めるために利用されてしまったことを認めました。つまり、すべての行事が素晴らしいものであるかのように繕われ、写真が撮られ、そっけない型どおりの会話が、あたかも非常に重要な会談であったかのごとくに取り扱われ、記事にされたと。
(中略)
今後、トインビー・池田対談についての新たな本が世に出ることは、ほとんど考えられません。もし、祖父があれほど年老いていなかったら、また、もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、けっして池田氏に力を貸すようなことにはならなかったと思います。祖父は当時、とても弱っていましたし、人を信じて疑わない、生来からお人好しの性格だったのです。もし、私達の招待旅行が、祖父トインビーと池田氏を、よりしっかりと結び付けようとして企てられたものでしたら、それは、まったくの逆効果に終わったといえるでしょう。

アーノルド・J・トインビー(1889年〜1975年)
歴史学者、文明批評家。イギリス・ロンドン生まれ。オックスフォード大学を卒業。ロンドン大学教授、王立国際問題研究所・研究部長

アーノルド・J・トインビーの歴史観
第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」

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