公明党元委員長が見た池田名誉会長
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公明党元委員長 矢野氏
手記 「創価学会名誉会長 池田大作と
内弁慶の発露「言論出版妨害事件」

 池田氏の性格を特徴づけるのが、学会内部での雄弁ぶりと好対照な「内弁慶」ぶりだ。それが如実に表れたのが、「言論出版妨害事件」と「月刊ペン事件」だった。
 「言論出版妨害事件」の発端は1969年の8月。政治評論家の藤原弘達氏が、『創価学会を斬る』という本を上梓しようとしていると判明したのがキッカケだった。竹入氏と私は、田中角栄氏(当時、自民党幹事長)を介して、
 「初版だけは出していいがすべて学会が買い取る。その後いい仕事を回すから、増刷はするな」
と藤原氏に交渉を仕掛けた。
 このときは本当に苦労した。藤原氏は頑として譲らず、交渉は決裂。逆に角栄氏から懐柔されたことを暴露され、一気に政治問題化した。本来は創価学会の問題にもかかわらず、私たち党の人間まで動いていたことから、国会で取り上げられる騒ぎになったのである。
ちなみに同書は発行されるや話題となり、最終的には100万部以上売れたという。学会では同書を買い占めて焼却しようという計画もあっただけに、かなり売上に貢献したはずだ。
 国会ではこれまで創価学会が行ったとされる言論妨害の様々な“前歴”について、具体的な質問が次々に飛ぶ。私ですら初耳のこともあったほどで、追及する側からすれば質問の攻撃材料には事欠かない様子だった。
 「そもそも創価学会のために、公明党が動くとはどういうことか」
と政教一致問題にまで議論は発展してしまう。
 こうなると最後は証人喚問である。「池田を国会に呼べ」の声が囂然と沸き上がった。
 こちらとしては何より痛い攻撃である。弟子として、師を国会の場に引きずり出させるわけにはいかない。証人喚問絶対阻止のため、公明党は連日の右往左往を強いられた。
 だが、私は本音としては、池田氏に国会に出てもらいたかった。
 騒いでいるのはしょせん、各選挙区選出の国会議員なのだ。こちらは数百万世帯を抱える団体のトップ。器が違うという思いもあった。だから国会の場であろうと、幹部会の時のように颯爽と登場して、
 「一部行き過ぎた行為があったようだ。言論妨害をしようという意図などなかったが、誤解を与えたとすれば私の指導不足である。申し訳ない。ただ、信教の自由は大切である。この件については、私は譲るつもりは一切ない」
というように堂々と語ってくれればいい。
 そうなれば、議員のほうが圧倒され、
 「池田氏まで出てくれたのだ。この件はもう、結構です」
となって問題はあっという間に、終止符が打たれてしまうはずなのだ。いつも我々を魅了するような、あの堂々たる名演説をやってくれさえすれば。当時の私は本気でそう信じていた。
 ところが池田氏、内に向かっては類い稀なる演説の天才であっても、外に対しては一転、尻ごみしてしまうのだった。このころは学会本部にも姿を見せず、たまに顔を合わせても、池田氏からは、
 「どうなんだ、(喚問は)大丈夫か」
ばかり。
 「まったく、俺だけが辛い目に遭うんだよ」
 「お前たちはしょせん、他人事だ」
とトゲのある言葉を浴びせられたこともあった。外の世界に怯える内弁慶、臆病者以外の何ものでもない。これでは金輪際、証人に出ることはあり得ないな、と諦めるしかなかった。
 当時、誰かを国会に証人喚問するには、各委員会の委員全員による全会一致が暗黙のルールだった。多数の横暴を許さない、少数政党を保護するという意味の不文律である。だから、少数政党であれ一党でも反対したら、喚問はできない了解事項になっていた。
 ただこれは、あくまで「暗黙のルール」である。国会は明確な規定がない限り、前例に基づいて動くが、このままでは弱い。そこで私は工作に動き回り、これを「慣例」に昇格させた。かくして公明党が反対する限り、池田証人喚問はあり得ないこととなった。この事件で唯一、我々の挙げた成果である。
 とりあえず証人喚問は阻止することができたが、池田氏が何も発言しないまま幕引きというわけにはいかない。結局、1970年5月3日に行われた創価学会第33回本部幹部会で池田氏が声明を出すことになった。この幹部会は池田会長就任10周年記念式典の意義があっただけに忸怩たる思いだっただろう。
 「言論問題はその意図はなかったが、結果としてそれが言論妨害と受け取られ、世間に迷惑をかけたことはまことに申し訳ない」
 また政教一致問題についても言及せざるを得ず、以降学会と公明党は表向きには、政教分離の建て前を装うことを余儀なくされた。



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