公明党元委員長が見た池田名誉会長
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公明党元委員長 矢野氏
手記 「創価学会名誉会長 池田大作と
出廷拒否の「月刊ペン事件」

 「月刊ペン事件」の発生は1976年。雑誌『月刊ペン』に池田氏の女性スキャンダルが書き立てられたのが発端だった。同誌は「崩壊する創価学会」と銘打ち、学会スキャンダルを連載で追及したのである。
 『月刊ペン』の編集長は隈部大蔵という人物。西日本新聞で論説委員をしていたのだが、1968年『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』『創価学会・公明党の解明』という本を出そうとして学会の猛攻に遭い、出版を断念させられた過去を持つ。つまり彼にとって、学会は恨み骨髄の敵だった。一説によると彼が『月刊ペン』の編集長を引き受けたのも、思う存分学会批判ができる場を求めてのことだった、という。
 このようなことを放置しておいては、第2第3の隈部氏が出てきてしまう。さっそく『月刊ペン』と隈部氏を名誉毀損で訴えようという話になった。学会副会長の北条浩氏が、いい弁護士を紹介してくれと私のところへやって来た。
 当初、私はこの依頼を断った。学会にはすでに顧問弁護団がある。率いるのは山崎正友氏といって、共産党の宮本顕治氏宅盗聴事件を始め、様々な裏工作を陰で仕切ってきた男である。山崎氏という存在がありながら、外部から弁護士を引っ張って来たとなれば、当然恨みを買ってしまう。
 しかも裁判の条件が、常識はずれのものだった。何と池田氏の証人出廷は断固として阻止する、というのである。
 名誉毀損で訴えるのだから、原告側(つまり池田氏)の証言なしに裁判は成り立たない。ましてや男女関係のスキャンダルではないか。2人の間で何があったかは、当事者にしか分からない。だから池田氏とその相手と名指しされた女性(一応イニシャルになってはいるが、知っている者が見れば一目瞭然)が出廷し、
 「そんなことは一切ない」
と明言すれば相手に反証の余地はほとんどない。女性も学会関係者だ。実際の関係がどうあれ、証言をお願いするのは容易だった。直ちに勝訴である。
 ところが当の池田氏が出廷を嫌がる。またも「内弁慶」ぶりが露呈したというわけだった。名誉毀損で訴えます、ただし証人には出たくない、ではお話にもならない。
 北条氏の再三の依頼にやむをえず私は、2人の弁護士を紹介した。彼らも「池田氏の出廷なし」の条件には渋い顔を隠せなかった。結局、「男女関係があったか」の本論に入ることはせず、「そもそもこのような記事に公共性はあるのか」という入り口論で戦おうという法廷戦術になった。
 弁護士を紹介したあと、私は実質的にはこの問題にタッチしていない。うまくいっていると弁護士からは聞いていたし、実際、1審、2審とも学会側の勝訴に終わった。最高裁は書類審理だけで、証人出廷はない。これで池田氏を出廷させないという方針は貫かれたまま、学会勝利がほぼ確実だと思っていた。
 ところがここで急転直下の事態が起こる。山崎氏が造反し、事件の背景を詳しくしたためた上申書を最高裁に提出したのだ。
 実はこの件でも山崎氏は、裏で暗躍していた。『月刊ペン』側が池田氏の証人出廷を要求しないよう、人を介して被告側と交渉していたのだ。池田氏の意向を受け、何重もの保険をかけておこうとしたのだろう。彼の上申書によれば、現金2,000万円を被告側に渡すことで、隈部氏の弁護士も同意していたという。確かにこれがなければいくら何でもこんな裁判、ここまでうまくいくはずがない、というのも本当のところだったらしい。ちなみに山崎氏の造反の理由は金銭問題で、こちらは学会が山崎氏を恐喝で告訴するなど泥沼の展開となった。
 いずれにしても、驚いたのは私や私が紹介した弁護士たちである。勝訴している側が相手に現金を渡していたというのだから、最高裁が不審に思うのも当たり前である。
 かくして審理は1審差し戻しとなり、池田氏は出廷を余儀なくされるハメとなった(裁判そのものは途中で被告の隈部氏が死亡したため終了)。私が北条氏に「なぜ、被害者が加害者に金まで払って裏交渉する必要があるんですか」と問い詰めたところ、
 「すまない。どうしてもコレの意向でな」
と親指を立てたことを覚えている。
 臆病なあまり墓穴を掘ってしまったわけである。
 

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