公明党元委員長が見た池田名誉会長
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公明党元委員長 矢野氏
手記 「創価学会名誉会長 池田大作と
見事な戦略、創共協定

 前に紹介した2事件と対照的に、池田氏の卓越した戦略家ぶりが見事に発揮されたのが、創共協定である。
 1974年、公明党の頭越しに学会は共産党と話を進め、相互協定を締結した。互いに敵視し合ってきた両者が、向こう10年間にわたって一種の“停戦”を結ぼうというもので、仲介役に立ったのは、作家の松本清張氏だった。締結されたのは12月28日と年末ギリギリだったが、大晦日になるまで委員長の竹入氏も私も、このような話が進められていることなどまったく知らされていなかった。
 知らされた我々は猛反対だった。当然である。共産党は「言論出版妨害事件」の時、学会批判の急先鋒だった不倶戴天の存在だ。新聞『赤旗』でもさんざん叩かれた。
 そもそも野党とはいえ、公明党は自民党とはうまい関係を保っている。だからこそ、田中角栄氏も「言論出版妨害事件」の時、我々のために骨を折ってくれた。だが共産党と手を組んだとなれば、これまで通りのつき合い方は難しくなる。他の野党からも目の敵にされる恐れがある。公安当局からも目をつけられる可能性がある。竹入氏は、
 「もう俺は知らん」
とそっぽを向いてしまった。だがもう結んでしまった協定である。書記長の私に調整役が回ってきた。池田氏から呼び出され、1対1で会った。
 「先生、ホンマにこれから、共産党と仲良くやっていかれるおつもりなんですか」
 単刀直入に聞くと、
 「バカを言うな」
と言下に否定された。
 「表面だけだよ。自民党と共産党、両方敵に回せるか。お前よく考えてみろ。言論(出版妨害)問題の時の共産党の恐ろしさを忘れたのか。この協定で10年間、共産党を黙らせるんだ。協定に反対する公明党議員は絶対に許さないからな。お前と秋谷でうまくやれ」
 私は唖然としつつも、秋谷氏と相談し、協定締結の交渉担当者、野崎勲氏(当時、男子部長)と会った。確認したいことはただ1つである。この協定が共産党との政治共闘も含む「政治協定」なのかどうか。
 「政治協定」であれば話はややこしい。共産党とイデオロギーを共有することになってしまう。例えば原子力空母が日本に寄港した時など、
 「原子力空母ハンターイ」
と共産党とデモをやるか、という話だ。
 すると何度確認しても野崎氏は、
 「政治協定という言葉は使っていない」
と言う。もちろん交渉の経過からすれば「政治協定」であることは明白だったが、その言葉を使っていないならば今回の協定は「文化協定」ということにすり替えようとなった。学会と共産党が文化的に交流を深めようというのであれば、公明党は関係ない。
 そこでその方針に則って、「秋谷見解」というものを作成した。当時副会長だった秋谷氏に、創共協定についての見解を発表してもらい、実質骨抜きにしてしまおうというわけだ。1975年7月に読売新聞がこの協定についてスクープ、他紙も追随したのを契機として、聖教新聞に「秋谷見解」を掲載。学会と共産党は、「共闘なき共存」の関係を保つということにした。
 当然、共産党は激怒した。一方的に協定を骨抜きにするとは何事か、というわけだ。だが共産党というところは、どこか律儀な面があるのだろう。あれだけこちらの対応を怒っていたくせに、以降学会への攻撃はぴたりとやんだ。裏側の事情を知る私から言わせれば、これは池田氏の詐略そのものだったが、戦略は見事に成功した。
 協定期間中の1980年、山崎氏が宮本顕治氏宅盗聴事件は創価学会によるものだったと犯行告白し、両者は完全決裂。協定が更新されることはなかった。しかし、この10年間、共産党対策に気を取られずに済んだことの意味は大きかった。
 なぜなら、その時期、池田氏は次の戦略を着々と進めていたからだ。総本山大石寺との「宗門戦争」である。
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